ひねもすのたり。

日々と山と猫と蕎麦屋のこと。

諏訪上社巡り 2022年4月25日【1】小袋石

4月25日のおでかけ。

諏訪上社前宮・本宮を歩いて巡りつつ、気になるところがあったのであちこち寄り道してみました。

上社の上から鎌倉道遊歩道をずっと歩くつもりでしたが、災害復旧工事中で通れないため、迂回しつつ山を目指し…

林道をテクテク歩いていきます。途中、何かの遺構なのかな?という石積みがいくつか。そして桜がきれいに咲いていました。山桜の仲間でしょうか(^^)

観光マップを見ても詳しく書かれていないので、スマホで地図を確認しながら探すと…あ、上にお社があった。

ここから入っていくのかな…

おお、『大社』発見!こちらが目印です。ではお邪魔しますm(__)m

山の中へ入っていくと4つの小さなお社があるのですが、その話はまた改めて…。今回目的のものは更に奥にあります。

ほんの数分程度ですが、坂を上っていくと…見えてきました。

今回目指していたのは、こちらの小袋石(おふくろいし)

諏訪のとある語り部の方が「ここが諏訪信仰のはじまりです」とスケールの大きいことをおっしゃっていたので、どんなところなのか気になっていたのです。

語り部さんいわく「諏訪七石はすべてこの小袋石から切り出されている」そうなのですが…

まず諏訪七石というのは、硯石・沓石・蛙石(甲石)・小袋石・亀石・兒玉石・御座石という七つの石のことを言うらしく、『諏訪上社物忌令之事(1238年)』という書物に書かれているのだそうです。

過去に行われていた神事に「廻り湛(まわりたたえ)」というものがあり、神使(おこう・諏訪明神の代役の子供たち)が、神の依り代となる木や石を回ってミシャグジ様を地上に降ろすというものだったとか。(※その数か月後に別の神事でミシャグジ様をまた送り上げるらしい)

その石が諏訪七石だったのではと言われていますがはっきりとしたことはわからないそうで。

この石の後ろを見ると不自然にえぐれている箇所(切り出したと思われる部分)があるらしいので、後ほど見てみようと思います。

 

小袋石にまつわる伝説は他にもありまして。

この巨石がどこからやってきたのかというと「太古の昔、八ヶ岳の北横岳が最後に噴火したときにこの石がここまで飛んできた」のだそうです(゜.゜)

昔々八ヶ岳は大きなひとつの山で、富士山よりも高かったせいで女神様にメッタ打ちにされた…なんていう伝説がありますが、実際にも八ヶ岳というのは富士山のようなコニーデ型火山で、標高は今よりもずっと高かったのだそうです(3400mだとか4800mだとかいくつか説があるようですが…)。それが長い年月をかけて噴火活動を繰り返して現在の形になったとのこと。そして八ヶ岳の山の中でも一番新しい火山が北横岳と言われているのだとか。

※山の崩壊については、噴火なのか地震なのかもしくはまだわかっていないことも多いそうです。

 

「北横岳が一番新しい火山というのは去年蓼科山に登ったときに勉強したぞ!」と自信満々の私。オットに「一番新しいって言ってもさぁ、40万年前とかだよね?とんでもなく昔だよね~」とドヤ顔で言い放ったのですが…

帰宅後に念のため確認したら、40万年前ではなく1万年以内でした…

しかも近年の研究により、直近の噴火は600年~800年前ではないかということがわかったとか…

えっ、めちゃめちゃ最近じゃん!!(いかん、時間の感覚がおかしくなってる)

いやそれ以前に私の「40万年前」発言よ…なにをどう勘違いしていたのやら。本当に失礼いたしました。(ハリウッドザコシショウの「2兆年の芸歴を活かして…」をなぜか思い出してしまった)

 

この小袋石がどの噴火で飛んできたものなのか、そもそも本当に北横岳から飛んできたものなのかはわかりませんが、なんだかロマンのある話ですねぇ。

 

更にもうひとつ驚きの事実。

「この石は断層の交わるところにぴったり落ちてきた」のだそうです。(ほ、ほんとに…!?)

この地面の亀裂、ただの亀裂ではなくなんと中央構造線でして、しかもこの下で糸静線と交わっているのだとか…?(糸静線=糸魚川静岡構造線)

確かにこの二つの断層は諏訪周辺で交わっているというのは聞いていましたが…

(↑前宮近くにある案内板より)

この地図だとちょうど前宮の辺りで交差していますね(゜.゜)

もっと細かく見るとぴったり交差する点はどこなのでしょうね。前宮のどこかなのかもしれないし、もしかしたら本当にこの小袋石なのかも?真相はわかりませんがそういう説もある、ということで。

さて、この断層の溝を越えて向こう側へ行きます。一応小さな橋のようなものもかかっていますが…

ひと思いに飛ぶ。トリャ!!

うーむ、それにしても見事な溝ですね。東側は茨城の鹿島神宮、西側は熊本の幣立神宮へとつながっているとか。確かに地図上では何度か辿ったことはありますが、こうして実際に断層の溝の一部を目にすると…とても不思議な感じがします。

ところで!中央構造線といえば人気のパワースポットと呼ばれていますが、個人的にはパワースポットにはあまり興味がありません…というより非常に鈍い体質なのでしょうか?由緒ある神社や巨木、巨石などを見て「おお、すごいな」とは素直に思うのですが、「ビリビリくる」とか「エネルギーを感じる」といった感覚が皆無なのです。

パワースポット巡りがお好きな方にはごめんなさい、決してそれを否定するつもりは一切ないのです。むしろそういう目に見えないものを感じられる人がうらやましい…。

そんなわけで、何を見ても「ほえー」としか思えない鈍感人間が綴るパワースポット巡り、まだまだ続きます。

石のぐるりを観察してみます。七石を切り出したというのはどの部分なのだろう。向かって左側ものっぺりと平らで不自然な形のように見えますが…

 

そうそう、この石に関する伝説はまだあるのです。(長々とすみません)

小袋石という名前の他に「舟つなぎ石」という別名もあるのだとか。

こんな山の中で舟をつなぐ?どういうこと?と不思議に思いましたが、どうやら大昔の諏訪湖は今よりもずっと大きかったそうなのです。一説には、先程歩いてきた林道(標高約900m)までがずっと水の中に沈んでいたのだとか…。

ネットで検索してみると「昔の諏訪湖はこうだった」という想像図をアップされている方が何人かいらっしゃるのですが、それを踏まえて2月に尖石縄文考古館で見たマップを再度見てみると…

★4/4投稿「尖石縄文考古館へ。」 - ひねもすのたり。

こうなるのか!!

※水色が昔の諏訪湖想像図。黄色い線が現諏訪湖

昔の、といってもいつ頃までなのかはまだ勉強不足でよくわかりません。語り部さんがちらっと「鎌倉時代の初め頃に水が引いて落ち着いてきた」とおっしゃっていたので、1200年頃まで水でびたびただったのかな?とはいえずっと同じ広さだったわけではなく川の様子も変わっていったのだと思いますし…。こういう資料って諏訪の博物館なんかで見られるのかなぁ。今回行けなかったのでまた次の機会にm(__)m

少なくとも縄文・弥生の頃はこんな状況だったのですね、きっと。確かにこのマップを考古館で見た時に「集落が湖からだいぶ離れているのはどうしてなんだろうね?」とは思っていたのです。諏訪湖や川の水害があって住めなかったのかな?とはぼんやり思っていましたが、本当にそうだったのですね。

 

諏訪湖が広かった理由については、地区の記録に以下のような記載があるそうです。

『断層湖である諏訪湖釜無川で東に流れていたが、八ヶ岳の噴火による火砕流で富士見峠が埋まり、大きな湖となった。』

その後は水が天竜川に流れていくなどしてだんだんと今の水位まで下がったとか。ちょうどこの辺りの標高(約900m)には木舟、大池、舟久保など水辺を連想させる地名があるそうですよ。お、面白い…。

 

話がまた脱線してしまいましたが、石の裏側に回ってみます。削られたところはどこかな、と探してみると…

まさに裏側の上部がぼっこり凹んでいます。あれか!!

でもあのてっぺん部分から他の六石すべてを切り出せたのかな?まぁ元々の姿を知らないから何とも言えませんが…。他の箇所からも切り出しているのかしら。

※岩の周りをウロウロしている間、私はまだこの石が40万年前に飛んできたと思い込んでいました。

そっと手を添えながら、

「すごいな…40万年前か」←下手したら1000年以内だっつーの

いやあ、しばしのんびりさせていただきました。満足したのでそろそろ下ります。

林の奥に見えた枯れ木が鹿の姿に見えました。

下まで戻ってきて気付いたのですが、この「大社」、もう一ヵ所別のところにもありました。

元々はこちらが参道だったのかな?古い地図を見るとお社の配置が今とだいぶ違うようですし…。現在は倒木などで通れないようになっていますね。でもうっすらと踏み跡らしきものはありました。

次は磯並社などのお社編ですm(__)m

hinemosk.hatenablog.com