ひねもすのたり。

日々と山と猫と蕎麦屋のこと。

河西養狐場パネル展示のこと①

記憶が新しいうちに養狐場のパネル展示のことを少しずつ綴ろうと思います。

養〇場と聞くと皆さんは何を思い浮かべますか?私は浜名湖のすぐ近くで育ったので養鰻場と答えてしまいますが、養鶏場や養魚場など様々な養殖場を目にすることがあるかと思います。

今回の主題は「養狐場」。毛皮製品にするための狐を人工的に飼育する施設です。そういえば昔キツネの襟巻きってあったなぁ…いえ実物をよく見かけていたわけではないのですが、テレビや漫画などでお金持ちのステータスとして見聞きしていたような記憶。あと、ミンクのコートとか。

現在では動物福祉・動物愛護などの観点から毛皮反対!という声が高まっており、毛皮農場を禁止した国(日本もそのひとつ)や、毛皮は使わないことを宣言している世界的ブランドも多くあると聞きます。※毛皮農場禁止の背景には国内の生態系を守るという目的もあるとのこと

私個人の気持ちとしては、過去にはフェレット、現在は猫と暮らしていることもあり「ふわふわした可愛い動物が毛皮を獲るために増やして殺されている」という事実を思うと胸が痛くなる…ので、こういった話題はついついスルーしてしまいがちなのですが…

今回はこの展示をどうしても拝見したくて。なぜ興味を引かれたかについては以前にも書いたこのあたりの話が関わってくるのですが↓

【過去記事】養狐場の話。2024/3/21

【過去記事】『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』2024/3/25

たまたま狐の話題が続いたのも何かの縁。「狐がかわいそう!」という感情論だけでは語れない何かがあるんだろうな。現実にこういうことがあったんだという歴史をまずは知って、私の狭い視野を広げなければ。

ということで展示期間が終わる前に早速出かけてきたのでありました。

富士見町に河西養狐場という施設があったのはおよそ90年前のこと。

ただ町史や区史にも詳しい記述がなく町民でも知っている人が少ないということで、井戸尻考古館学芸員の平澤さんが情報提供を呼びかけていました。

その後、古い新聞記事や富士見町に縁のあった文人たちの手記や作品、地元の方々の話などから歴史を探り、その結果をまとめたのが今回の展示会です。

 

手前のパネルから順に拝見していくと…1枚目「はじめに」の冒頭、

堀辰雄風立ちぬ』の舞台になった、長野県諏訪郡富士見町に養狐場が存在することを知ったのはーーー

えっ、この辺りって『風立ちぬ』の舞台だったんだ!?としょっぱなからつまづいてしまった私。どうやら作中で菜穂子さんが入院していた療養所のモデルが富士見町にあったそうなのです。それが当時日本初の高地結核療養所として開設された富士見高原療養所なのだとか。

風立ちぬ』は、私は小説を読んだことがなくジブリ映画を観ただけですが、屋外に並べられたベッドの上でイモムシのように布団にくるまり、白い息を吐いていたシーンが印象的でした(あれ、寒いだろうなぁ…)。

ネットで少し検索してみたら小淵沢でペンションを経営されている方がこちらの療養所について書かれた記事があり、それによるとこの療養所は結構な費用がかかるため裕福な家の方が多く入所していたのだそう。そして『風立ちぬ』や『月よりの使者』の舞台になったことで、さらに有名な方々が療養に来るようになったそうです。また、これはパネルにも書かれていたことですが初代院長の正木俊二さんは不如丘を号する文人だったそうで、彼を頼って療養に訪れた文化人も多かったのだとか。

さていきなり療養所のことから書き始めてしまいましたが、肝心の養狐場とどのようにつながるのかというと…

河西養狐場では狐の子育てが落ち着く時期に見学者を受け入れており、当時の富士見高原の観光施設のひとつになっていました。そんな養狐場に、療養所からも多くの文化人が見学に訪れていたのだそうです。入所していた方のほか、お見舞いに来た方なども。

養狐場自体には公的な記録が残されていないため情報を集めるのに苦労されたそうですが、見学客に文化人が多かったことから様々な手記や作品にこの養狐場のことが記されており、そのおかげで当時の様子の一端をうかがい知ることができたのだとか。

な・・・・・っるほど・・・・・・・・・

たまたま文化人が多く訪れる環境にあったというのはかなりレアな状況。結核で療養されていた方はお辛かったことと思いますが…そんな偶然が重なったおかげで過去を知ることができるんですね。

なんだかあの話に似ていますね、陶磁器を輸出する際に緩衝材として使った浮世絵が海外でいまだに多数残存している…みたいな。あれ、ちょっと違う?

あるいは昔の人の押し花から当時の貴重な新聞の内容を知ることができた、とか…?←この話は完全にうろ覚えだ、すみません忘れてください。

1933年(昭和8年)に河西養狐場を設立した河西荘三さん。軽井沢で狐の実験的飼育を数年間行った末に「これはいける!」と富士見町に土地を購入し、新たな事業として養狐場を始めたのだそうです。

諏訪地域の気候が狐の飼育に適するのか、繊細な動物である狐を駅に近い場所で飼育するのは可能なのか等の声もあったようですが、世界恐慌の影響で相場が安定しない養蚕業に代わり、外貨獲得のための新たな事業となりうるのか注目もされていた模様。

なるほど、それで展示のタイトルが『蚕から狐へ』なんですね。

開業後の河西養狐場については当時の新聞記事がいくつか見つかったそうで、それによると年々順調に狐の飼育数は増え、毛皮の品質も大変良く、事業は大成功したとのこと。新聞には「種狐分譲殺到」などの記事も見られ、河西養狐場が諏訪地域の毛皮産業をリードしていた様子が伺えるそうなのですが…

1940年(昭和15年)12月24日の信濃毎日新聞に「毛皮景気も夢 贅沢は敵だ!以来の受難 寒風冷し 諏訪の養狐場」というタイトルの記事が。

調べた限りでは、最後に河西養狐場の存在を伺うことのできる資料がこの記事だそうです。

この年の7月に施行された「奢侈品(しゃしひん)等製造販売制限規則(軍需生産の拡大に直接貢献しない高級織物・貴金属・装飾品などの贅沢品の製造や販売をすべて禁じたもの)」のあおりを受けて市場が低迷していたと書かれています。

一時は「あの毛皮を巻かねば女ではない」とまで言われるほどの人気があり、河西さんの新規事業は大成功をおさめたものの…最後は戦争のあおりを受けて閉場せざるを得なかったのでは、とのことでした。

とはいえこれは調査にあたった平澤さんや先生方の推測であり、河西養狐場がいつどのように閉場したのかについてははっきりわからないのだそうです。地元の方に尋ねても「いつの間にかなくなっていたなぁ」というぼんやりとした印象のようで。

1933年の設立からわずか数年で表舞台から姿を消した河西養狐場。飼育されていた狐たちは一頭も残らず屠殺されたのか、あるいは逃がされたり、自ら逃げ出した子もいたのかな…。

そんなことを考えていたら、積読チャンネルで語られていた「うちの周りめっちゃ狐いるんすよ、昔あった狐の養殖場から逃げたらしくて」という話がふと思い出されました。生き残った狐たちの子孫は今でも森で生きているのかもしれないですね。(※すみません、動画内ではバブルの時代にとおっしゃっていたので今回のとは時代が異なりますが…)

そういえば内山節さんの著作でも「養殖ギツネと野生のキツネが交配して云々」ということが書かれていたな、と思い出したので『日本人はなぜキツネに---』をペラペラとめくってみると…

こ、ここで驚きの事実が発覚。

内山節さんが書かれていた養殖ギツネは、毛皮を獲るために飼われていた養狐場の狐ではなく、森の野ネズミ・野ウサギを狩ってもらうために放された狐でした…。

状況をざっくり書き出しますと、

  • 1956年から始まった拡大造林のために山の木々を切り倒してスギやヒノキの苗木を植える
  • 木を切ったことで山に光が射し込むようになり苗木の周りにたくさんの草が生える
  • 山に野ネズミや野ウサギが増え、苗木がかじられるという被害が続出
  • この事態に対処するため山に狐を放つということが各地で行われた

この時の狐は人間の手で育てられたいわゆる養殖ギツネで、この狐ともともと山や森にいた野生の狐が交配して狐の能力がどんどん低下していった、という話でした(しかも飯田さんの話同様時代が違う)。

一度読んだはずなのに…!勝手に変な解釈をして異本化してしまう自分がポンコツすぎて泣いちゃった。

 

ここまで河西養狐場の設立から閉場までおさらいしてみましたが、パネル展示はまだまだ続いております。続きはまた改めて…_(._.)_

※富士見町コミュニティ・プラザでの展示は 8/25(日)〜9/8(日)なのでご興味のある方はぜひ!