ひねもすのたり。

日々と山と猫と蕎麦屋のこと。

十五年間。

唐突に『グッド・バイ』読書メモ。

太宰が故郷を離れて東京で暮らした十五年間について綴った短編、その名も「十五年間」。

何ページもかけて日本のサロン芸術、サロン思想についての嫌悪を散々書き連ねたあとの

お上品なサロンは、人間の最も恐るべき堕落だ。しからば、どこの誰をまずまっさきに糾弾するべきか。

自分である。私である。

太宰治とか称する、この妙に気取った男である。

この一節、突然のにしおかすみこ構文がたまらない。

更に「秩序正しい生活、まっ白なシーツに眠るのはたいへん結構なことだが」という文章につけられた

(それは何としても否定できない魅力である!)

という心からの本音があまりに最高すぎる。こちらはなぜかずんだもんの声で脳内再生されてしまう。

「まっ白なシーツで眠るのは最高なのだ (by ずんだもんボイス)」

 

……ずんだもんで急に思い出してしまいましたが(早速の脱線すみません)。

少し前に某SNSで流れてきた

「深淵をのぞく時、暗くてよく見えないのだ」

「そしてまた深淵からも、逆光であなたがよく見えてないのだ」

というアホな名言が味わい深すぎてしばらく引きずっておりました。

「おかしいのだ。深淵をのぞいても暗くてよく見えないのだ (by ずんだもんボイス)」

これにはニーチェも苦笑いでしょうね、きっと…。

 

さて話は太宰に戻りまして。

この「十五年間」という作品には愚痴や苦悩や苛立ちなど人間味あふれる率直な感情がどかんとぶつけられていて、読者としては終始苦笑いとほんのりとした共感が。

37歳で25回の転居。そして戦災を被ったことで

またもや無一物の再出発をしなければならなくなった。やっぱり、サロン思想嫌悪の情を以て。

まだサロンを引きずっている…。

しかし、「ひでぇみじめな思いばかりして来た」「ひでぇめにばかり遭って来た」というあまりにシンプルな苦悩に、私は何も言えなくなってしまう。

 

ある先輩に「もう私には財産がありませんが、これ以上誰にも頼らないつもりです。自殺も考えています。あなたに何かお願いするわけではありませんが、ただ知っていただきたくて。この手紙を読んだらすぐに破棄してください。」という手紙を出した太宰。

後日その先輩と街で偶然出会ったとき、あの手紙はすぐ破ってくれましたかと尋ねたところ、その先輩からは

「ああ、破った。」

という一言だけだった。人間の弱さと心細さを徹底的に煮詰めたような短くも印象的なエピソード。そしてこの後太宰はなんとかして生計の血路を開かなければならない、と決意する。

そんな中で、自分の生まれ育った地を改めてよく見ておこうと津軽旅行をし、蟹の脚をポリポリかじりながら暗鬱な低い空を見上げながら考えるに、

私がこの旅行で見つけたものは「津軽のつたなさ」というものであった。稚拙さである。不器用さである。(中略)私はまた、自身にもそれを感じた。けれども同時に私は、それに健康を感じた。

津軽には文化なんてものは無く、津軽人の私も少しも文化人では無かったということを発見してせいせいしたのである。

東京に暮らし、飲み歩き遊び歩き、すっかり都会の生活に馴染んでいたのかと思いきや、太宰自身はそのように思っていたんだなぁ。

私も一向に都会人らしく垢抜けていないし、いや、いよいよ田舎臭く野暮ったくなるばかりである。サロン思想は、いよいよ私と遠くなる。

やっぱり最後までサロンなのね。

 

今回もまとまりのない読書メモで失礼いたしました。続きはまた改めて。