ひねもすのたり。

日々と山と猫と蕎麦屋のこと。

仮面の女神と鉢被せ葬。

4月に訪れた韮崎市民俗資料館にて。

レプリカではなく本物のウーラちゃんとご対面。

後田(うしろだ)遺跡で見つかったことから『縄文の仮面小町 ウーラ』という愛称がつけられたそうです。作られた時期はおよそ4000年前、縄文後期前半とのこと。

 

さてこのどっしりとしたフォルム、土偶好きな方ならお気付きかと思いますが…

茅野市中ッ原遺跡出土の国宝「仮面の女神」にそっくりなんです。

仮面の女神は尖石縄文考古館でいつでも拝見することができるのですが、昨年夏には仮面の女神と鉢被せ葬に関する企画展もありまして。既に数か月経ってしまいましたが備忘録的に振り返りたいと思います。

この企画展では仮面の女神のほか「仮面の女神のそっくりさん」が一堂に会しておりました。上の写真で言うと左はハート形土偶、右の3つが仮面三姉妹という構図です。

解説によると仮面土偶は関東のハート形土偶の影響を受けて成立し、甲信地方のごく一部で作られるようになったのだとか。

左が群馬のハート形土偶。確かにそっくりだけど…なんだかこのくびれと文様の雰囲気、どちらかというと山形の「縄文の女神」を彷彿とさせるような気がするのですが関連性はあるのかな?(素人の感想なので的外れかもしれませんが)

ちなみにハート形土偶の右隣は辰野町の「縄文の母 ほっこり」。

左が仮面の女神で、右が韮崎のウーラ。

作られた順番は、ほっこり→ウーラ→仮面の女神と考えられているため、仮面の女神は三姉妹の末っ子と書かれていました。そう言われるとなんだか可愛いですね。

 

こちらは「鉢被せ葬」に使われたとされる浅鉢。仮面の女神が出土した土坑の近くから見つかったそうで、附(つけたり)としてこちらも国宝指定を受けています。

※附(つけたり)とは「文化財指定の際に文化財本体に関連する物品や資料等、指定文化財と一体をなすものとして指定されるものの呼称」とのこと。ざっくり言うと仮面の女神の関連資料だから合わせて国宝に指定された、という理解でいいのかな。

さて先ほど登場した「鉢被せ葬」という言葉。これは亡くなった人の顔に鉢を被せる埋葬方法で、諏訪地域や千曲川信濃川流域を中心とする限られた地域で行われた珍しい葬法なのだとか。

すべての人に対してではなく、集団内の特殊な役割・属性を持つ人物にのみ行われていたと考えられています。

解説パネルをとても興味深く拝読しましたが、「より墓制と深くかかわりのある突起付浅鉢が用いられるようになった」がわからない… 宿題にしなければ_(._.)_

肝心の浅鉢ですが、これがまたとんでもなくクオリティの高いものばかりで衝撃を受けました。この細かく美しい文様…!!

あまりに美しすぎてため息。

この突起、仮面の女神の顔に見えるような…(三角形ではないけども)。

どんな人がどんな想いでこの浅鉢を作り上げたのか。想像の中にぼんやりと浮かび上がってくるようです。

こちらも鉢被せ葬に使われた波状口縁土器。

 

鉢被せ葬が行われた時期は縄文後期前半、寒冷化により食糧不足に陥ったとされる頃。苦しい状況の中で集落を存続させるため、協力関係の構築・強化が行われたと考えられています。

人の死に際して発生する葬送儀礼は集団の同族意識を再認識する機会であり、この鉢被せ葬にも集団の結束を意識させる役割があったのではないか。仮面の女神の存在も、衰退しつつある集落を憂い、集落復興の願いが込められていたのかもしれない。 …と、解説にありました。

しかし仮面の女神が埋葬されて以降、後期中頃になると鉢被せ葬の事例が減り、やがて行われなくなったとか… それと同時に八ヶ岳西麓の縄文集落は、ごく一部をのぞいて終焉を迎えたとされています。

かつて栄えた多くの集落が消滅に向かっていく様子を思うとなんだか切なくなりますね。ふと、遮光器土偶が生まれた背景について語られた松木武彦さんの言葉を思い出しました。

縄文時代の終わり近く、気候の寒冷化という危機に直面していち早く農耕に踏み切った西日本に対し、東日本は呪術の強化に走った。 土偶の表現が人間離れして怪異になるのもその一環で、極めつけが東北を中心に流行した遮光器土偶だ。その強烈な容貌からは、人びとの祈りの強さと、背後の不安や苦悩が浮かび上がってくる。(別冊太陽諸星大二郎特集より)

素人考えですが、東北の遮光器土偶仮面の女神がなんだか重なって見えてしまいました。でも仮面の女神にも当時の人々の祈りが込められていたのには違いないはずですよね。


さて、今回は韮崎のウーラちゃんとご対面したことで、仮面の女神と鉢被せ葬について振り返るきっかけができました。ここでひとまず話は終わる予定だったのですが…

5月半ばに訪れた県立歴史館企画展「原始 ~開館30年のあゆみ展~」にて

なんと鉢被せ葬の展示とご対面しまして…。

安曇野の北村遺跡というと、先ほど載せた解説パネルにも書かれていた…

↑このお話ですね。(パネルの下半分)

ご遺骸の写真を撮ったり載せたりするもどうかと悩みましたが…なかなかお目にかかれない貴重な機会かと思い、撮らせていただきましたm(__)m

図や文章での理解にとどまっていましたが、実際の鉢被せ葬の様子を知ることができるこちらの展示はかなりインパクトがあり、より当時の人々に思いをはせるきっかけになりました。企画展のアンケートにあった「印象深かった展示は?」という項目にもはっきりと「鉢被せ葬」と書いてしまったほど。

県立歴史館の企画展、期間がまだまだあるかと思っていたけど6月半ばで終わりなんですね。ご興味のある方はぜひ。

 

余談ですが、縄文時代に行われていた屈葬は日本以外ではあまり見られない埋葬方法なのだそうですね。屈葬をしていた理由については諸説あるそうですが、そのうちのひとつに「死者の霊による災いを防ぐため」というものがあります。そして弥生時代に伸展葬が行われるようになった理由のひとつが「死者が生き返らないことがわかったから」。

なんだかこの流れ、すごく味わい深いものがあるなぁとしみじみ考えてしまいました。「そうか、死んだ人って生き返らないんだ…」とわかった瞬間ってどんな感じだったんだろう。ひとつの事実に辿り着くまでに数百年、あるいは数千年もかけていた時代の話。想像するだけで気が遠くなるようですね。