ひねもすのたり。

日々と山と猫と蕎麦屋のこと。

梅之木遺跡のガイダンス棟にて。

今年のくるみ拾いは9月某日からスタートしたのですが、たまたまその前日に山梨県の梅之木遺跡へ再び立ち寄る機会がありました。

こちらには二年ほど前にも訪れたことがあり、そのとき外の解説パネルに「集落周辺はクルミやクリなどの森林だった」と書かれていたのが印象深く、私の中ではすっかり梅之木遺跡といえばクルミ・クリというイメージが出来上がっていたのでした。

今回の目的は、ガイダンス棟に展示されている出土品の数々を拝見すること。管理人さんがいらっしゃるので挨拶しつつお邪魔します_(._.)_

博物館のような広い施設ではありませんが、部屋のぐるりに様々な展示が。こちらは梅之木遺跡から出土した土器、土偶、石器などなど。

ぱっと目を引く顔面装飾付釣手土器。原村のフゥーちゃん系ですね!もこもこした縁の装飾と中部高地顔がそっくり。

スタイリッシュな深鉢はなめらかな渦巻き模様。東北の大木式?と雑な覚え方をしていますが違っていたらすみません。

こちらもすらっとした美しい姿。

こちらはよく見るとたくさんの線が引かれています。繊細な手作業ですね。

こちらは小さな壺形土器。耳のような小さな把手があることから両耳壺(りょうじこ)と呼ばれているそうです。このフォルムもさることながら、人の顔のようにも見える文様が面白いですね。ウルトラマンか??

暮らしのための石器いろいろ。小さな磨り石と石皿のセットが可愛い…!

右は打製石斧。柄につけて土を掘る道具にしていたのでは、という説明がありました。縄文農耕論を提唱した藤森栄一さんに思いを馳せるひと時。

左は黒曜石で作られた鏃や石匙、破片など。こういう形の鏃の展示、わりといろんなところで見かけますがかっこよくてとても好きです。ふとスイミーを思い出してしまうような。

右は磨製石斧たち。なんと伊那の三峰川周辺で製作された石斧が出土しているのだそうです!我が家は飯島なので少し離れていますが、伊那方面へ出かけると三峰川沿いを通ることもあるのでちょっとだけ親近感。他には糸魚川市の姫川周辺で製作されたものも交易によってもたらされたとか。当時の人々とともに道具も長い旅をしてきたのですね。

こちらは「呪術の道具」として展示されていた土偶や耳飾り、石棒など。人の力を超えた自然や精霊たちに働きかけるためのものだったのではと考えられています。装身具もただのおしゃれではなく身分表示や呪符、お守りの意味を持っていたのでは、とのこと。

出土品のほかは梅之木遺跡に関する解説がずらり。

改めておさらいですが、梅之木遺跡は縄文時代中期…およそ5000年前から4500年前に人々が暮らしていた集落です。初めはわずか3軒の住居しかなかったのがだんだんと増えていき環状集落に。しかし500年間続いたこの地での人々の営みは、やがて終わりを迎えます。

「梅之木遺跡にいた人々はどうなってしまったんだろう??」

前回訪問時は外の解説パネルしか拝見できなかったので、これが一番の疑問として私の中に残っていました。時期を考えるときっと寒冷化のため食料の確保が難しくなってよそへ移動してしまったのかな…と思うのですが

ちゃんとそのことに関する解説もありました。

集落が終わりを迎えたのは、やはり中期終わり頃にあった地球規模の気候変動が原因のようです。気温が低下し天候不順が激しくなっていく中で、これまで豊作と不作を繰り返していたクリやクルミの実のなり方が不規則になり、食料確保の予測が難しくなったのだとか。クリもクルミも当時の主食なのでかなり深刻な事態ですね。

代わりの食料としてトチノミを利用しようとしますが、トチノミは川の水にさらしてアク抜きをしなければ食べられません。その作業をするにはこの集落内にある川は狭く、水量が少なかったのではないかと…

そこで、人々は十分な水量のある川を求め北へ移動し、1km離れた鰻沢川のほとりに新たな集落「上原遺跡」を作ったのだそうです。結果として梅之木遺跡は放棄されることになりました。

 

良かった、少し離れた場所で人々の暮らしは続いていたのですね。とはいえ寒冷化に伴う食糧難で大変な思いはされたかとは思いますが…

上原遺跡はだいぶ規模が大きく、梅之木遺跡をはるかに超える数の住居が見つかっているのだそうです。梅之木遺跡にいた人々が住みつく以前から集落が築かれていたらしく、きっと他のいろんな集落からも人が集まってきていたんでしょうね。

「いい場所見つけた!私たちも混ぜて~」と和やかに合流していったのでしょうか。縄文時代は戦争の証拠が見つかっていないことから「人々は平和に暮らしていたのではないだろうか」とよく言われていますが、実際にどのような様子で暮らしていたのかとても気になります。

温暖な気候で食料も豊富にある頃ならみんなで余裕のある暮らしをしていたのだろうと想像できますが、寒冷化に向かい食料もだんだんと確保できなくなり…となれば関係性もギスギスして暴力や奪い合いも起きてしまいそう。

しかしそんな中でも大きな争いの痕跡が見られないというのは、誰もが苦しい中でも協力し合いながらなんとか生きてきたのかなと、そんなことを思うのであります。

※あくまで素人の感想です。ちなみに、石器や鏃などで傷を受けたと考えられる人骨も全国で数例見つかってはいるそうなので、個人間の殺人(もしくは事故?)はあったかもしれない、という話は聞いたことがあります。

こちらのパネルは、クリ・クルミの結実量と栄養量、梅之木遺跡の人口を30人と仮定して作られた植生景観。これだけの木があれば、豊作年に大量に採集し不作年に備えて貯蓄しておくことで、集落での安定した暮らしを続けることができただろう…とのこと。

我が家も毎年あちこちにクルミを拾いに行きますが、「今年はたくさん拾えたな」「今年は裏(不作)だから少なかったけど去年の分もあるから足りそう」を繰り返しています。

ここ数年異常気象が続いていますが、いつかまたクルミの結実が不規則になるのかな…幸い現代ではクルミやクリを主食にはしていないけど…

いや!そうなった場合、被害は当然クルミやクリだけにとどまらないはず。どうか食糧危機が起こりませんように(切実)。

 

さて、梅之木遺跡といえば史跡公園内にいくつもの復元住居があり、これらはすべて関係者や市民の方々の手作業によるものなのですが

道具から手作りとはさすがです……!しかも当時を再現すべく、伊那の三峰川産の緑色岩を用いているのだとか。住居1軒を建てるのにどのような木材がどのくらい必要だったのか記されていますが、その作業量を想像すると気が遠くなってしまいます。石斧で木を一本切り直すのにも大変な労力を要するだろうに。

そして週末縄文人さんの動画を思い返すと、おそらくこちらでも途中で石斧が壊れてまた作り直して…ということもあったんだろうな。

梅之木遺跡では住居跡のほか、横を流れる湯沢川へ下りる道や川べりの作業場なども見つかっており、当時の暮らしぶりを多面的に知ることができます。これらの痕跡がまとまって発見されるのは全国でも珍しいのだそうです。

ガイダンス棟でじっくり資料を拝見したあとは、外の史跡公園へ。

前回のような快晴ではないものの、正面には鳳凰三山オベリスクを確認できました。相変わらず良い眺めです。

たくさんの人の労力によって復活した住居を眺めつつ、はるか昔の暮らしに思いを馳せるひと時。

公園内の栗の木には立派な実がついていました。縄文時代の人々にとって、秋の実りはこの上ない喜びだったのでしょうね。

最後に。ガイダンス棟にパンフレットがあったので購入してきました(100円)。資料も史跡公園も無料なのでこういうところで少しでも課金ができれば…。

また山梨方面に行くときは立ち寄りたいと思います。お邪魔しました_(._.)_