ひねもすのたり。

日々と山と猫と蕎麦屋のこと。

「私だけだろうか」。

飯間浩明先生の『遊ぶ日本語 不思議な日本語』

 

我が家の本棚に眠っていた一冊。確か例のキツネ本の仲間でご近所さんから譲り受けたものだったはず。(過去記事:『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』←こちらですね、個人的目から鱗ボロボロ本。)

今回は読書メモをつけずに一気に読んでしまったので、あとからパラパラと振り返り特に気になるところにドッグイヤーをば。

とても面白く拝読したのですが… p47の「私だけだろうか」という項目の冒頭に現れたこの一文にギョッとしてしまいました。

向田邦子脚本の名作ドラマ「阿修羅のごとく」の中で―――

うわっ、うわぁ~~~~~やめてくれ、また♪美味しいとこ~だけが止まらなくなる!!

…と思いきや即座に脳内で回り始めたのはビッグブリッヂのししとうでした(;'∀')

なにこの流れ、「阿修羅のごとく」の話題に触れるとジェッディン・デデンもアイスのCMもビッグブリッヂの死闘もすべて通り越してビッグブリッヂのししとうが再生されるようになったの?私の脳内。(過去記事:脳内BGMの憂鬱。)

 

さて本題に戻りますが。

阿修羅のごとく」で巻子が読み上げた新聞投書に「そんなことを考えさせられる今日この頃である」という一文があり、それについて夫の鷹男が「今日この頃である――女は好きだね、こういう言い方」と言う場面が取り上げられていました。

な、なにぃ~?女だからってそう決めつけるんじゃないよ!(飯間先生にではなく鷹男への怒り)と反射的に吠えてしまったけど…… あれ、思い返してみると、私、よく書いているのでは……?

更に読み進めていくと「……する私である。」「……してしまう私。」という文末表現もよく見られるという話に。こ、これもよく書いているような気が…。

これらは深い意味を持つものではなく文の調子をやわらげるために添えられるのではないか、という解説に大きく頷いてしまいました。そうなんですよね、文末がうまくまとまらない時にも便利というか。

 

また、新聞投書に多く見かける例として「…と思うのは私だけだろうか」という表現についても触れられていました。「学生のレポートの中にこの表現を見つけるとそれだけで不合格にしたくなる」と語る大学教授もいらっしゃるそうで、私は学生でもレポートを提出する立場でもありませんが、なんだか恐ろしい気持ちになってしまいました。

…しかし!この表現に似たものはなんと万葉集に収められている山上憶良の歌にも登場するというのだから驚きです。

<天地(あめつち)は 広しといへど 吾(あ)がためは 狭(さ)くやなりぬる 日月は 明しといへど 吾がためは 照りやたまはぬ 人皆か 吾(あれ)のみやしかる>

広い天地に私の居場所はないのか、太陽も月も私には照ってくれないのか、だれでもそうなのだろうか、私だけがそうなのだろうか――― という歌。いつの時代にも孤独を抱えた人間というのはいるものなんですね…そしてそれが歌として現代まで残っているという事実に改めて驚かされます。

憶良本人だって今頃びっくりしているんじゃないかな?もちろん真剣に詠まれた歌ばかりだとは思うけど、中には「軽い気持ちで書いちゃったけど冷静になってみたらこっぱずかしいこと書いてんな…」っていうのもあったりして。夜中に書いた手紙みたいな。

そういえば少し前に『あおによし、それもよし』という漫画にハマりまして。作中で小野老がうなぎを食べた直後に木片に歌と絵をかき、それを見た山上憶良(中身はミニマリストサラリーマン)が「インスタにあげるみたいだな」と呟いていました。ある程度身分の高い人に限られますが、当時歌を詠むことは現代のSNSに匹敵するほど気軽なことだったのかもしれないな、と奈良時代の人々に思いを馳せる私なのでした(あっ早速この構文を使ってしまったわ)。

 

話が脱線してしまいましたが、『遊ぶ日本語 不思議な日本語』読書メモその1でした。続きはまた改めて_(._.)_